大化改新の真実は ?

「   大化改新」はおそらく誰でも知っています。そして、その内容は中大兄皇子が反逆者の蘇我入鹿を倒し天皇中心の国家を作ったと習つてきましち。

 

   でわ本当に蘇我入鹿蘇我氏は反逆者だったのでしようか?

私達が習う古代の歴史は主に「日本書紀」「古事記」特に「日本書紀」の記述が中心になっています。勿論、その内容に対する批判は昔からされています。

     でわ本題に戻りますが「大化改新」は蘇我入鹿に対する中大兄皇子(後の天智天皇)等による軍事クーデターだったという事です。

日本書紀」からストーリーをみてみます。

蘇我入鹿は儀式を行う大極殿(だいごくでん)に招かれます。その部屋には二人の刺客が潜んでいます。儀式が終りかけても刺客二人は入鹿を恐れ、体は震え喉はカラカラ。業をにやし、中大兄皇子は二人を部屋の中に突き出します。入鹿は二人に斬殺され天皇家のサクセスストーリーの完成です。
f:id:a8707:20200622192846j:image「入鹿を斬殺する場面が描かれています。「多武峯縁起絵巻」」

日本初の軍事クーデターです。所謂(乙巳の変)=いっしの変で645年です。

待って下さい.入鹿は反逆者だったの でしょうか。

日本書紀」は約50年後の712年の完成です。この時代は夫婦でもある天武天皇持統天皇の全盛期でもあります。また、何と「日本書紀」の約3分の1が天武天皇についての記述です。天皇家の功績ばかりで蘇我氏はその悪行の羅列に終始一貫しています。

   こで聖徳太子の登場です。聖徳太子が中心となり蘇我馬子と協力して様々な政治改革を実行したと伝えられています。憲法17条や冠位12階等々です。

聖徳太子は紙幣にも刷られ(後の別の人物説が有力)ファン?の方も沢山おられますが、残念ながら聖徳太子虚構説も根強く教科書にも記載されています。

     聖徳太子の名前は死後に付けられ、本来は厩戸王です。その厩戸王蘇我馬子の作った「冠位12階」に注目してみます。12階は豪族の勢力により順位づけしたものですが蘇我氏の名前はありません。

即ち政治改革は馬子中心に厩戸王と共に進めており、蘇我氏が(反逆者)の訳がなく結局は天皇家が権力争いに勝利しただけの事なのです。

 

  • (付記)    1  世界は西暦ですが、日本だけ                       が 良 いかどう かは別にして                        元号があり645年の(大化)が                       初めてです。                                              2   大王から(天皇)に称号が変わ                       ったのは7世紀後半の天武、                        持統朝からです。

                      3     倭から(日本)の名称が使用さ                               れたのも やはり天武.持統                                 朝からです。