東大寺の大仏 (廬舎那仏 )



   像高 約15m で ( この世のすべてを照らす光を持つとされる ) : 仏像です。

では何故この様な大きな大仏が作られたのでしようか ?

政治不安.天然痘の流行により多くの人々が犠牲となり、権力者であった藤原四兄弟も死去し.民衆は租税に苦しみ貧困に喘いでいました。

     その様な社会不安を取り除こうと延べ260万人を動員して造られた大仏建立がさらに貧困に輪をかけました。

    色んな変遷を経て743年に( 聖武天皇 )は平城京にて「大仏造立の詔 」を発布し大仏造立が開始されます。

     しかし、完成によって水銀公害が発生しどの位の民衆が苦しんだか想像もつかないし、都をうつす一因になろうとは思ってもいなかったでしょう。
f:id:a8707:20200705205312j:imageそして、752年に完成し盛大な大仏開眼供養の儀式が行われました。

     その9年余り、大仏造りは困難を極めましたが、そこに登場したのが (行基 )です。

彼は当時の仏教界から、小僧.と蔑まれていましたが、橋や道路造りで民衆から絶大な支持を得ていたのです。

   そんな行基はその成功で大僧正という仏教界のトップの座を得ました。宗教と政治の絡みですかね。

 

     では.あんなに大きな大仏をどんな方法で造ったのか ?  鎌倉の大仏も同じですが、まずは材木で枠組みを作り、粘土で型作りをして隙間を開けて二重にします。そこに溶かした銅を流しこむのです。

    その作業を八回繰り返します。足場は土を盛るので.完成時には小高い丘になり、大仏はその土の中にすっぽり埋もれた状態になります。~若草山です。

    完成後は土を取り除き、表面を磨きます。

まぁ、すごい手間暇をかけての作業は想像を絶した事でしょう。

費用は関西大学の宮本教授の試算では4657億円にもなったという事です。

 

   しかし.この大仏造立は暗い側面を社会にもたらしました。大仏の表面に金を塗る塗金作業に大量の、水銀、が使用されたのです。

何と 金と水銀の比率は5:1です。

 

    日本経済新聞、2004年5月7日の文化欄には

平城京、水銀が命絶つ」との記事を掲載し

遷都 ( 794年 平安京 )への原因は大仏造立による公害、との仮説を掲載しています。

   また、大仏造立をした.若草山.には木が生えなかった、と言われています。

( 水俣病 )の公害古代版です。