天才 空海

 空海こそ天才と呼ぶに相応しいと思います。

 

この時代.空海のライバルにして先に世にでたのが最澄ですが、二人を一緒にとりあげると混乱するので(最澄との確執は重要なので触れます)最澄については後日にします。

 

    空海は774年、讃岐の地方豪族、郡司の家に産まれました。

 

806年、高野山金剛峯寺で開山開宗したのですが、最澄比叡山延暦寺と同年とは奇遇です。(金剛峯寺真言宗の総本山です。)

 

     そして、2人は同時期に遣唐使船で唐に渡りますが、ここから2人は異なる道を歩み始めます。

 

     最澄は僅か8ヶ月で帰国しましたが空海は留まり約2年間学び続けます。

 

空海が学んだのは、それまで日本には存分しなかった( 密教 )です。


f:id:a8707:20200715205101j:image

空海は当時の中国で密教の最高位にあった僧侶、( 恵果 )から学び奥義を習得したのです。

空海が奥義を習得した直後に恵果は死去するので、空海のみが真言密教の奥義を知る事となります。

     難解な真言密教を理解するには相当な語学力が必要ですが、空海は独学で中国語を習得していたのです。 

 

帰国後の二人のやり取り.確執が面白いです 

   

 最澄空海真言密教の経典を貸してと頼み空海は貸しますが、経典のみで修行しない最澄へ送った書状が 「風信帖」
f:id:a8707:20200715221503j:image

 

( 空海は三筆のひとりで後に深い縁を持つ嵯峨天皇もその一人です。 )

 

    最澄は自分の弟子達を高野山に送り、密教を学ばせようとしました。その中に優秀な (泰範 )がおり、彼だけが戻って来ません。

 

そんな泰範に最澄が送った書状が「久隔帖」です。
f:id:a8707:20200715224848j:image

最澄が泰範に戻って来なさい、と命令.懇願 ? しています。

 

 最後に空海は意外にも智略家 ?

 

嵯峨天皇に会った時、中国の最高の筆を贈呈しています。そのお返し ?ではないでしようが、嵯峨天皇から真言宗東寺派の総本山である「教王護国寺 」(東寺)が贈られます。f:id:a8707:20200715234400j:image

 

良く「弘法筆を選ばす 」と言いますが、逆手にとったのですかね⁉️

 

空海は現在も高野山金剛峯寺奥の院 (御廟)で祈り続けていると信じられ、毎日2回精進料理が出されています。*62歳での入定.( 即身成仏 )です。「弘法大師」は( シゴウ)といい、死後の贈り名です。           

 

蛇足ですが以前TVで寺の内部を撮影した番組で奥の院に続く階段迄でした!

       

 

  * 空海について一部ですが.

民衆の為の勉強施設「しゅげい種智院」

農民の為に池等々を造る社会事業

四国八十八ヵ所の霊場の整備~巡礼 (遍路 )

その他、エピソードは数々。